第41回千葉歴史学会大会のご案内
日 時 : 2023年5月21日(日) 9:30 受付開始
会 場 : 千葉市生涯学習センター (千葉市中央区弁天3丁目7-7)
総 会 : 9:40 ~
研究報告: 10:30 ~
※例年と研究報告の部会順が異なりますので、ご注意ください。
①《近世史部会》
「文化・文政期の生実藩領における領主と村の関係性‐「仁政」のリアルを考えるために‐」
岩本 和恵氏(千葉県立千葉高等学校・中学校)
②《近現代史部会》
「夷隅事件‐進展過程の考察‐」
佐藤 海斗氏(大正大学大学院)
③《歴史教育》
「中世荘園はどうできたか?‐寄進地系荘園を見直そう‐」
渋澤 拓真氏(東京都立世田谷総合高等学校)
【昼食・休憩】 12:30~13:30
研究報告: 13:30 ~ 14:45
④《古代史部会》
「「水落地蔵」納入「諸国勧進交名」から見た古代・中世の房総」
川尻 秋生氏(早稲田大学教授)
⑤《中世史部会》
「小弓公方足利義明の関宿城攻めに関する一考察」
遠山 成一氏(千葉市立郷土博物館)
記念講演: 15:00~16:30
〔講演者〕横山百合子氏(国立歴史民俗博物館名誉教授)
〔演 題〕「近世史料を読む視点‐江戸新吉原遊郭研究を素材として‐」
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《近世史部会》
文化・文政期の生実藩領における領主と村の関係性 ‐「仁政」のリアルを考えるために‐
岩本 和恵
譜代大名森川家により治められた生実藩領(一万石)の大部分は、現在の千葉市南部の地域に広がっている。千葉市域を生活圏とする高校生と接するなかで、地域の歴史資料にふれ、具体的に踏み込んで考える機会は少なかった、という声に出会ってきた。本報告は、高校の歴史教育における実践をも見据えて構成した。
生実藩領の村々について、これまで入会権をめぐる争論が注目されてきたが、当該期の社会的・経済的背景や、領主権力と関連づけて検討した研究は少ない。これは、史料の残存状況とも関係していると思われる。
近世後期の領主・領民関係については、治者-被治者の二項対立構図ではなく、両者をとらえる視点として「仁政」のあり方を巡り、議論が蓄積されてきた。本報告では、文化・文政期における争論の内済をめぐる領主と村の動向に注目し、両者の関係性を具体的に検討する。
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《近現代史部会》
夷隅事件 ‐進展過程の考察‐
佐藤 海斗
自由民権期の千葉県において、有力な民権結社の1つであった夷隅郡の以文会は、明治17年初冬、同年9月に発生した加波山事件の首謀者富松正安の逮捕に伴い、同会の会幹らに爆裂薬を用いて圧制政府の転覆を目論む武装蜂起計画の嫌疑がかけられる。官憲は直ちに捜査を開始し、井上幹ら12名が拘引される。爆裂薬の製造は証拠不十分にて不起訴となるが、捜査の過程で発覚した官吏侮辱罪にて内8名が起訴され、実刑判決が下る。
先行研究では、富松正安隠匿事件から夷隅事件終結までの期間を主な研究対象としており、自由党急進派と夷隅民権派がいつ頃から接触をしたのかは明らかになっていない。また、夷隅事件の詳細な成立過程を考察した滴草充雄氏の論考は、新聞史料を主に考察がなされており、当事件裁判記録とは内容が異なる部分がある。そのため、裁判記録や文書史料を用いて事件の全体像を把握する必要がある。本研究では、これらの課題の検討を試みる。
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《歴史教育》
中世荘園はどうできたか?‐寄進地系荘園を見直そう‐
渋澤 拓真
日本史の単元において、生徒も教師も頭を悩まされるのが「荘園の授業」である。そもそも荘園や寄進という行為が、現代の我々にとってイメージしづらいものであり、生徒もなかなか関心を持てないように感じられる。
また、中世荘園の成立に関しては、多くの教科書で「寄進地系荘園」が取り上げられており、これを説明するために必ずと言ってよいほど「鹿子木荘」の史料が使われている。しかし、鹿子木荘の史料には問題があることが石井進氏によって指摘されているほか、これまでの寄進地系荘園を相対化する中世荘園の成立が、川端新氏や高橋一樹氏らによって明らかにされている。
本実践は、こうした歴史学の研究成果にもとづきながら、「上野国新田荘」の史料を教材化し、中世荘園の成立について、生徒たちと探究したものである。成果と課題について報告したうえで、荘園の授業を生徒がより実感を持って学ぶために、みなさまと議論ができたらと考えている。
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《古代史部会》
「水落地蔵」納入「諸国勧進交名」から見た古代・中世の房総
川尻 秋生
水落地蔵は、もと京都市に存在したが、現在は愛知県津島市の西光寺が所蔵している。重要文化財の指定にあたって解体修理が行われ、多くの資料が発見された。「諸国勧進交名」もその一つで、文治3年(1187)2月から、東日本を中心に30数カ国の勧進が行われ、国ごとに多くの勧進場所、約100名の人名が記されている。これまで歴史学からはまったく注目されていなかったため、報告者は武蔵守で信濃源氏の祖平賀義信、下野国の小山政光、陸奥国の藤原基成(もと陸奥守で藤原秀衡の岳父)の名を見出した他、陸奥国での勧進場所を平泉と考定し、鎌倉との緊張関係を反映していることも示した。
本報告では、これに続いて房総三国での勧進場所・交通・人名の特徴などについて考察を加え、新たな房総の史料として位置づけたい。この時期の一次史料は少ないため、新たな中世史初期の史実および古代に遡源できる多くの要素も紹介できると思う。
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《中世史部会》
小弓公方足利義明の関宿城攻めに関する一考察
遠山 成一
千葉市立郷土博物館では、報告者も担当の一人となって、昨年10月から12月にかけて小弓公方足利義明を取り上げた「我、関東の将軍にならん ‐小弓公方足利義明と戦国期の千葉氏‐」と題する特別展を開催した。
準備するにあたって、十分な事前検討が足りなかったと自身反省する点もいくつかあった。その一つが表題とした義明による関宿城攻めの経緯である。
義明(小弓入部後、道哲と改名するが本報告では足利義明で統一する)は、永正15年(1518)以降に小弓公方となってから、しばらくして兄古河公方足利高基の古河城を攻めるため、その前面に立ちはだかる関宿城に攻撃をしかけている。
年月日不詳小山修理大夫宛「足利高基書状」によると「今度関宿道哲成揺候」とされ、義明の軍勢が関宿城を攻めたことがわかる。問題となるのは、この攻撃がいつどのようにして行われたかであるが、これまで詳細にはわかっていなかったことである。そのため展示でも、今一つ明確には解説できなかった。
その後、大永7年(1527)11月に発給された関宿城主簗田氏家臣の鮎川氏宛の高基感状で知られる名都狩要害での合戦を、関連史料とからめて検討を加えてみた。
本報告では、永正末から大永年間にかけての義明の動向を明らかにし、関宿城攻めがどのような経緯で行われたのかを考えてみたい。
なお、義明が関宿攻めを行うにあたり、小弓から市川、松戸の陸路を使ううえで、高基方から義明方へと帰属を変えた臼井氏の動向が、大きな影響を与えたと考えられる。臼井氏の動向にも注意を払っていきたい。
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《記念講演》
近世史料を読む視点‐江戸新吉原遊郭研究を素材として‐
横山 百合子
講演者紹介
横山 百合子(よこやま ゆりこ)
東京都出身。博士(文学、東京大学)。専攻は、日本近世史・ジェンダー史。
大学卒業後、神奈川県立高校で教鞭をとり、研修制度による大学院入学を転機として修士号・博士号を取得。2007年4月に千葉経済大学経済学部教授に着任以降、帝京大学教授、国立歴史民俗博物館教授を歴任し、2021年3月に同館を定年退職。現在、国立歴史民俗博物館名誉教授。
近世の身分および都市社会に関する研究を踏まえて、近世~近代移行期の女性およびジェンダーの実態と変容を究明する論考を多数発表するとともに、2020年10月~12月にかけて国立歴史民俗博物館で開催された企画展示「性差(ジェンダー)の日本史」では、同展につながる共同研究および展示プロジェクトの代表者を務めた。同展の成果は、展示図録および『新書版 性差の日本史』(集英社、2021年)参照。
明治維新期の江戸の都市史研究として『明治維新と近世身分制の解体』(山川出版社、2005年)、岩波新書『江戸東京の明治維新』(岩波書店、2018年)、遊廓・遊女に関する研究として、「遊女を買う」(佐賀朝・吉田伸之編『シリーズ遊廓社会1 三都と地方都市』吉川弘文館、2013年)、「遊女の「日記」を読む」(長谷川貴彦編『エゴ・ドキュメントの歴史学』岩波書店、2020年)などの著作がある。
会 場 : 千葉市生涯学習センター (千葉市中央区弁天3丁目7-7)
総 会 : 9:40 ~
研究報告: 10:30 ~
※例年と研究報告の部会順が異なりますので、ご注意ください。
①《近世史部会》
「文化・文政期の生実藩領における領主と村の関係性‐「仁政」のリアルを考えるために‐」
岩本 和恵氏(千葉県立千葉高等学校・中学校)
②《近現代史部会》
「夷隅事件‐進展過程の考察‐」
佐藤 海斗氏(大正大学大学院)
③《歴史教育》
「中世荘園はどうできたか?‐寄進地系荘園を見直そう‐」
渋澤 拓真氏(東京都立世田谷総合高等学校)
【昼食・休憩】 12:30~13:30
研究報告: 13:30 ~ 14:45
④《古代史部会》
「「水落地蔵」納入「諸国勧進交名」から見た古代・中世の房総」
川尻 秋生氏(早稲田大学教授)
⑤《中世史部会》
「小弓公方足利義明の関宿城攻めに関する一考察」
遠山 成一氏(千葉市立郷土博物館)
記念講演: 15:00~16:30
〔講演者〕横山百合子氏(国立歴史民俗博物館名誉教授)
〔演 題〕「近世史料を読む視点‐江戸新吉原遊郭研究を素材として‐」
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《近世史部会》
文化・文政期の生実藩領における領主と村の関係性 ‐「仁政」のリアルを考えるために‐
岩本 和恵
譜代大名森川家により治められた生実藩領(一万石)の大部分は、現在の千葉市南部の地域に広がっている。千葉市域を生活圏とする高校生と接するなかで、地域の歴史資料にふれ、具体的に踏み込んで考える機会は少なかった、という声に出会ってきた。本報告は、高校の歴史教育における実践をも見据えて構成した。
生実藩領の村々について、これまで入会権をめぐる争論が注目されてきたが、当該期の社会的・経済的背景や、領主権力と関連づけて検討した研究は少ない。これは、史料の残存状況とも関係していると思われる。
近世後期の領主・領民関係については、治者-被治者の二項対立構図ではなく、両者をとらえる視点として「仁政」のあり方を巡り、議論が蓄積されてきた。本報告では、文化・文政期における争論の内済をめぐる領主と村の動向に注目し、両者の関係性を具体的に検討する。
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《近現代史部会》
夷隅事件 ‐進展過程の考察‐
佐藤 海斗
自由民権期の千葉県において、有力な民権結社の1つであった夷隅郡の以文会は、明治17年初冬、同年9月に発生した加波山事件の首謀者富松正安の逮捕に伴い、同会の会幹らに爆裂薬を用いて圧制政府の転覆を目論む武装蜂起計画の嫌疑がかけられる。官憲は直ちに捜査を開始し、井上幹ら12名が拘引される。爆裂薬の製造は証拠不十分にて不起訴となるが、捜査の過程で発覚した官吏侮辱罪にて内8名が起訴され、実刑判決が下る。
先行研究では、富松正安隠匿事件から夷隅事件終結までの期間を主な研究対象としており、自由党急進派と夷隅民権派がいつ頃から接触をしたのかは明らかになっていない。また、夷隅事件の詳細な成立過程を考察した滴草充雄氏の論考は、新聞史料を主に考察がなされており、当事件裁判記録とは内容が異なる部分がある。そのため、裁判記録や文書史料を用いて事件の全体像を把握する必要がある。本研究では、これらの課題の検討を試みる。
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中世荘園はどうできたか?‐寄進地系荘園を見直そう‐
渋澤 拓真
日本史の単元において、生徒も教師も頭を悩まされるのが「荘園の授業」である。そもそも荘園や寄進という行為が、現代の我々にとってイメージしづらいものであり、生徒もなかなか関心を持てないように感じられる。
また、中世荘園の成立に関しては、多くの教科書で「寄進地系荘園」が取り上げられており、これを説明するために必ずと言ってよいほど「鹿子木荘」の史料が使われている。しかし、鹿子木荘の史料には問題があることが石井進氏によって指摘されているほか、これまでの寄進地系荘園を相対化する中世荘園の成立が、川端新氏や高橋一樹氏らによって明らかにされている。
本実践は、こうした歴史学の研究成果にもとづきながら、「上野国新田荘」の史料を教材化し、中世荘園の成立について、生徒たちと探究したものである。成果と課題について報告したうえで、荘園の授業を生徒がより実感を持って学ぶために、みなさまと議論ができたらと考えている。
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《古代史部会》
「水落地蔵」納入「諸国勧進交名」から見た古代・中世の房総
川尻 秋生
水落地蔵は、もと京都市に存在したが、現在は愛知県津島市の西光寺が所蔵している。重要文化財の指定にあたって解体修理が行われ、多くの資料が発見された。「諸国勧進交名」もその一つで、文治3年(1187)2月から、東日本を中心に30数カ国の勧進が行われ、国ごとに多くの勧進場所、約100名の人名が記されている。これまで歴史学からはまったく注目されていなかったため、報告者は武蔵守で信濃源氏の祖平賀義信、下野国の小山政光、陸奥国の藤原基成(もと陸奥守で藤原秀衡の岳父)の名を見出した他、陸奥国での勧進場所を平泉と考定し、鎌倉との緊張関係を反映していることも示した。
本報告では、これに続いて房総三国での勧進場所・交通・人名の特徴などについて考察を加え、新たな房総の史料として位置づけたい。この時期の一次史料は少ないため、新たな中世史初期の史実および古代に遡源できる多くの要素も紹介できると思う。
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《中世史部会》
小弓公方足利義明の関宿城攻めに関する一考察
遠山 成一
千葉市立郷土博物館では、報告者も担当の一人となって、昨年10月から12月にかけて小弓公方足利義明を取り上げた「我、関東の将軍にならん ‐小弓公方足利義明と戦国期の千葉氏‐」と題する特別展を開催した。
準備するにあたって、十分な事前検討が足りなかったと自身反省する点もいくつかあった。その一つが表題とした義明による関宿城攻めの経緯である。
義明(小弓入部後、道哲と改名するが本報告では足利義明で統一する)は、永正15年(1518)以降に小弓公方となってから、しばらくして兄古河公方足利高基の古河城を攻めるため、その前面に立ちはだかる関宿城に攻撃をしかけている。
年月日不詳小山修理大夫宛「足利高基書状」によると「今度関宿道哲成揺候」とされ、義明の軍勢が関宿城を攻めたことがわかる。問題となるのは、この攻撃がいつどのようにして行われたかであるが、これまで詳細にはわかっていなかったことである。そのため展示でも、今一つ明確には解説できなかった。
その後、大永7年(1527)11月に発給された関宿城主簗田氏家臣の鮎川氏宛の高基感状で知られる名都狩要害での合戦を、関連史料とからめて検討を加えてみた。
本報告では、永正末から大永年間にかけての義明の動向を明らかにし、関宿城攻めがどのような経緯で行われたのかを考えてみたい。
なお、義明が関宿攻めを行うにあたり、小弓から市川、松戸の陸路を使ううえで、高基方から義明方へと帰属を変えた臼井氏の動向が、大きな影響を与えたと考えられる。臼井氏の動向にも注意を払っていきたい。
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《記念講演》
近世史料を読む視点‐江戸新吉原遊郭研究を素材として‐
横山 百合子
講演者紹介
横山 百合子(よこやま ゆりこ)
東京都出身。博士(文学、東京大学)。専攻は、日本近世史・ジェンダー史。
大学卒業後、神奈川県立高校で教鞭をとり、研修制度による大学院入学を転機として修士号・博士号を取得。2007年4月に千葉経済大学経済学部教授に着任以降、帝京大学教授、国立歴史民俗博物館教授を歴任し、2021年3月に同館を定年退職。現在、国立歴史民俗博物館名誉教授。
近世の身分および都市社会に関する研究を踏まえて、近世~近代移行期の女性およびジェンダーの実態と変容を究明する論考を多数発表するとともに、2020年10月~12月にかけて国立歴史民俗博物館で開催された企画展示「性差(ジェンダー)の日本史」では、同展につながる共同研究および展示プロジェクトの代表者を務めた。同展の成果は、展示図録および『新書版 性差の日本史』(集英社、2021年)参照。
明治維新期の江戸の都市史研究として『明治維新と近世身分制の解体』(山川出版社、2005年)、岩波新書『江戸東京の明治維新』(岩波書店、2018年)、遊廓・遊女に関する研究として、「遊女を買う」(佐賀朝・吉田伸之編『シリーズ遊廓社会1 三都と地方都市』吉川弘文館、2013年)、「遊女の「日記」を読む」(長谷川貴彦編『エゴ・ドキュメントの歴史学』岩波書店、2020年)などの著作がある。
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